2018年1月17日水曜日

101 このブログの単行本出版 (2021.02)            

 #1~#100の記事は2000年10月から2016年12月までの間に書いたものです。別のブログの場所に書いていましたが、2018年1月にこのブログを作って一挙にまとめて転記しました。
 一応、このブログはこの100号で終了することにしました。この無料の「Blogger」においては、2018.02以後に続編を書き足すと、ホームページのアーカイブ表示からすべてのタイトル名が隠れてしまうという不都合に感じる事態になりますので、もし続編を書く場合は別のブログを新たに開いて書くことになりますが、時間の余裕がなくて当面は予定に入っていません。
 なお、記事の内容は時間とともに時代と合わなくなることもあり、自分の考えが変わってくることもありますが、内容自体は基本的には改変しないことにしています。実際には、時間が経っても不都合と感じているところはあまりありませんでした。ただ、追加記事を加えておきたいと思ったところには(注記)を書いています。この部分は青色で書いた文字で日付を付けています。
(2020.03記)


102 「ドクターMの ヘルスコラム」のネット出版
 このブログの#1~#100の記事をまとめて出版しました。制作・風詠社、出版・学術研究出版、発行日・2021年02月11日です。各記事の要約と、資料1(旧八景水谷クリニックの沿革と活動記録)、資料2(著者の経歴と学会発表記録)を付け加えてあります。
 ネットで単行本(アマゾンなど)または電子書籍として入手できるようになります。出版経費を抑える目的で書店販売への流通オプションはしていません。
 このブログの形式のままの追加や補足の計画はなくなりました。
(2021.02記)

103 「ドクターMの ヘルスコラム」の書店流通版の出版
 出版経費を抑えようと「電子書籍」と「ネット注文のみのPOD出版」のオプションだけで   
 したが、読んでくれた精神科病院の先生が、「前の2冊よりこの本が一番読みやすいのに
 惜しいなあ」と言ってくれたので、少数の書籍流通版を追加して、このパターンのPOD
 出版も追加することになって、4月20日に出版されました。
  その結果、アマゾン書籍その他においては、当初のものは「電子書籍」1100円、「ペーパーバッ ク・オンデマンド」1980円の注文となっていますが、これに加えて「書店を対象にしたネット注文」には流通版の2200円のものも加わりました。
  流通版のものは価格が高めですが、カバーと帯が付けられていて上等になっているだけでなく、見付かった文章の4箇所の訂正ができています。
 (2021.05記)
 

100 私の既往歴と現病歴を書いておきます (2016.12)

100. 私の既往歴と現病歴を書いておきます (2016.12)

 私は、このシリーズの0号で「病気のことは患者さんに一番教わった」と書きました。その通りで、それ故、自分がかかった病気が一番勉強になっています。それは、症状の微妙な実態や治療や療養の成り行きの実際が体感できたからです。あくまで、限られた特殊例かもしれませんが、自分の整理のためにも以下に少し詳しく書いてみます。

 終戦の1年後の世相の中で大阪市で生まれたが、生下時の体重は五百匁なかったという未熟児で、歯の生えるのも、歩くのも他人の数倍以上遅れたそうだ。ずっと「痩せ」であだ名は「キュウリ」。体重は、徐々に増えてきて、やっと現在は標準体重となった。現在は、筋肉が衰えて脂肪が増えすぎているはずなので、是正のつもりである。
4歳の時に肺結核になった。近所の小父さんが感染源だと母親に教えてもらった。僕は小父さんの娘と友達だったらしく、その家に何度も遊びに行った。その子の面影は全然覚えていないが、肺結核で布団に寝ていた小父さんの景色は記憶にある。小父さんは、僕の発症の直後に病死した。それまで、お母さんが夫の結核を近所に隠していたが、死んだので周囲の知るところとなったらしい。僕の病気の発見は、右の鎖骨上窩リンパ節の腫大だった。近くの外科病院でそれを摘出した。その時の手術室の雰囲気と局所麻酔以後の経過と「アッ、これは結核だ」と医師が発した時の「アッ」というのを覚えている。この頃は、記憶が良くて賢い子供だったと思う。レントゲンを撮ったら、両側の肺尖に病変が見つかったとのことだった。
ヒドラ・パス・ストマイの3剤投与で運よく治ったが、肺の異常陰影は残ってしまった。特効薬のストマイは父親が進駐軍から手を回して買ってくれたと、長姉が言っている。今の自分の知識からすると、実際は、その後、数年で治っていたと思うが、学校検診に係わる医師の無責任さ(と私は思っている)のお蔭で、小学校入学は1年延期され、入学してからも学校検診の結果が出た時点で「自宅学習」を命じられて、3年生になるまで登校できなかった。その後も、高校の卒業まで体育授業は大体は禁止されていた。この間ずっと、学校の内外で走り回っていた。大学の入学検診の時に、「こんな陰影は治ってしまった後だ」と説明され、そのことが明確になった。そういう経緯で、結核の医者は嫌いだった。ところが、巡りあわせの妙で、人脈の経緯からたまたま入局したところは、主な対象が肺結核から肺がんに移っていた呼吸器外科だったが、肺結核の患者さんもかなりの数の治療を経験することになった。
ストマイという筋肉注射の副作用(第8脳神経障害)のお蔭で、小学生高学年から、強い耳鳴りを自覚するようになって嫌だった。慢性の耳鳴により軽度の難聴を自覚している。難聴は現在でも仕事上で多少の不都合があるが、他人にはそれとは判らない程度でもある。これらは一生治らない。成人になってから、眩暈や嘔気も一寸したことで生じる体質になった。今からすると、子供に対する薬剤使用量が過大であったことは明らかだと思うが、これについては、時代が時代なので、仕方がなかったことだと納得している。この薬剤を使ってもらって「命拾い」をしたのかなと思うこともあったが、冷静に経過を振り返ると、ストマイを十分使用する前にもう治っていた可能性が大きいと思うようになっている。

小児結核の他は、最近まで、幸いにして「本格的な病気」にはあまり罹らなかった。幼少時にはしばしば虫歯には罹患して、拷問のような痛い治療を受けることが数回あった。その時代の治療を知っている者にとっては,現在の歯科治療は極楽のように思っている。歯科治療だけは成人になってからも繰り返し受けている。

 大学で体育解禁になり、本格的なスポーツをしたいという長年の夢に従って、医学部内のサッカー部に入った。全くの素人なので、練習は自分にはきつかった。ただ、俊足を生かそうと思った。5年生の夏合宿の時にヘディングをしようとして「ぎっくり腰」を起こし、強い痛みのために合宿所に数日寝ていたが治らないので、動くのも痛いけれども何とか大学の整形外科外来に受診した。長いこと待たされている間に、長椅子に坐りながら眠ってしまった。名前を呼ばれて目が覚めると、体がずり落ちそうになって、痛い腰が椅子の前の角に当たるような「海老そり」の姿勢になっていた。診察室に入った時は、ひどかった痛みが消失していた。医学部生高学年の自分としては「恥」をかいたが、治って良かった。その姿勢の荒療法(寝ているので判らなかったが)が著効をもたらしたようだ。
しかし、それ以後、両側の坐骨神経痛が生じることがある。加齢に伴って、一寸した姿勢の不摂生などにより、毎年のように軽度の坐骨神経痛を感じるが、様子をみているだけで良くなるので、検査や治療はしていない。胸腰の脊椎のレントゲン写真は大きい変化はない。

同じ頃、下肢に一寸した怪我をした夜にビールを飲んでいたら、傷の所から上行性に赤い筋が成長してくるのが見えた。不勉強の私は慌てて、深夜の夜間病院の外来に行ったら、出てきた医者が自分と同じくらいの年齢の者で、頼りなさそうに見えて肩透かしの気持ちになった。しかし、それは怪我をしたのにアルコールを飲んだからリンパ管炎が生じただけのことで、彼の処方した抗生剤と抗炎症剤は適正な対応だったことは後で判った。夜間に慌てて病院に行って、昼間と同じ対応を期待する自分が悪いということは、この時に勉強した。また、この時の受診以後、家族の受診は別にして、自分の病気で受診したことは幸いにして一度もない。全ては自分で対処している。歯科の治療は何度も受けている。

34歳の時に米国留学していた時に、頸部の激痛が生じて、話をしても響くくらいにひどかった。原因は不明だった(「寝違い」だったのかも入れない)。病院に行こうとは思わなかった。その時に、たまたま板チョコレートが置いてあったので、一枚全部食べてしまったら、ひどい下痢になった。そのチョコレートは便秘治療薬の10錠分だった。味は正に「チョコレート」だった(日本では、こんな紛らわしいものはないが、ワイフが当地で買い置きしておいたものだった)。頸の激痛の時での下痢は「本当に辛かった」。激痛は数日で良くなった。

36歳の頃に、自宅のトイレで排尿すると、茶褐色の尿だったので、「ワッ」と驚いたのだが、頭が真っ白になり咄嗟に水洗ノブを押してしまったので、尿検査用のサンプルを保存できなかった。直ぐに、本を調べたところ、「行軍性血尿」なので心配ないだろうと自己診断した。その日の昼間は長い距離をランニングしていた。その後、57歳の時にも茶褐色の尿が出たことがあった。やはり、昼間に走っていた。この時は2回目だったので慌てなかったが、面倒臭いからサンプルを採らなかった。ただ、翌日と翌々日とで職場で検尿検査をしたところ、それぞれ(2+)と(±)だった。翌々日には肉眼的には普通色だった。どちらの場合も再発しなかったので、精密検査などはせず、そのままで終わった。

やはり、36歳頃に不整脈が出だした。特に、趣味のジョギングをしている時に「動悸」として感じるので心配になった。不整脈は「期外収縮」というパターンだったが、循環器科への受診はしなかった。案外、自分のことには放置しながら経過観察することがほとんどだった。この頃は、「病気は自分で良く知っているから」ではなく、単に「面倒臭い」からだった。ただ、この時に大学生時代から吸い出していた煙草を15年ぶりに止めることができた。やはり、不整脈による動悸に不安感を持ったからだ。肺がんや肺気腫を扱う医者になって、「煙草は怖いことになる」という実例を目の当たりにしても、止められなかったのに、この時の禁煙は容易だった。禁煙した後で(たまたまかもしれないが)動悸は収まった。その後、現在に至るまで、この不整脈は何年もなかったり、散発する時期があったりの繰り返しだ。
 
喫煙については、その後また数回吸い始めたり、また止めたりを繰り返したが、その度に本数が増えて、最後は20本以上になった。開業する際に、また止めることが出来た(かかりつけ医として、人様に禁煙の指導をしないといけないので)。その後、若干期間において数回は禁煙を破っているが、また長い年月禁煙を続けたりして、数年前までの数年間は、1~2週間に1回くらい1箱買ったりする程度で吸うことがあった。つまり、毎日は吸わず、気が向いた時に吸うというものだった。この一年は吸っていない(先日1日だけ、もらい煙草を3本もらった)。最近の数年はそうでもないが、私においては、「禁煙」は決心があれば比較的に容易だが、「節煙」は非常に意志の強さが必要なので難しいと思う。
ただ、私は早くから禁煙したいのが本心なので、個人的には日本で煙草を販売してほしくないと思い続けてきた。煙草の味は他に代わるものがないので、一旦その味を覚えてしまうと意志が弱い人間には止めにくい。最初は美味しくないはずなので、最初から絶対に手を出さないのが正解だ。一方、本当に止めようという気になったら、禁煙補助剤などを使うまでもなく、簡単に止めることができる場合が結構あるのではないかと思う。軽い気持ちで、補助剤を用いて楽に止めようとするのは難しいと思う。止める決心が本気かどうかがキーポイントかなと思う。

40才過ぎで、兵庫医大というところで、肺外科の責任者であった時に、左肩から上肢にかけて厳しい疼痛が数か月続いた。毎日が苦痛で目途も経たず、指の知覚も鈍ってきて、手術中にピンセットを床に落としたりするようになった。そこで、大学の整形外科と脳神経外科でMRIなども含めて検査をしてもらった。しかし、特に病気らしいものはなかったので、それは「ホッと」した。鎮痛剤がどの程度の効果があったのかは、覚えていないが、そのうちに良くなった。その時の検査で、頚椎の変形が一か所あって、僅かに脊柱管が狭い部位があった。自分のこういう画像を見るのは本当に嫌なものだが、この所見が症状の原因かどうかは、判らないと思われた。こういう所見を見て、サッカーでのヘディングはリスクがあるかもしれないと思った。開業してから直ぐにシニアサッカークラブに入れてもらって、数年前まではずっと頑張ってきたが、ヘディングは試合中では、せざるを得ない場面ではしてしまう。運を信じて。その後も、この多分、頚肩腕症候群という症状は、軽重含めて毎年のように起こっている。その契機の多くは「運動」ではなく、「変な姿勢で横になっていたこと」である。鎮痛剤を飲みながら、愛護的な生活をするとそのうちに治る。

私の体質としては、前述の「耳鳴・軽度の難聴と時々の眩暈や嘔気」は別にして、一生のほとんどに亘って、「眠気症」「疲れやすい」「根気がない」「胃腸炎を起こしやすい」で困ることがある。後一者は時々で、その時の問題だけで済む。前三者は他人の目からは(特に、ワイフからは)「気がたるんでいる」ということだが、これらが生活の質を非常に落としているのは確かだ。なお、「疲れやすい」というのは、「読み書き」や「家事の手伝い」や「子育ての分担」や「ワイフの買い物の同伴」の時に著しくて、「運動」はしんどくても頑張れるので、私は運動以外は本質的に嫌いなのかもしれない。意識としては、「僕は勉強や学問は好きだ」と思っていても、身体の方が正直なのだろう。「眩暈」「吐気」「胃腸炎」については自分に対する処方内容はもう決まっているので、直ちに服薬することにしている。
加えて、中学生一年の時から記憶力に問題を覚えることが出てきたり(特に、記銘力)、授業中に居眠りをする常習犯になってしまった。この二つの不都合は今に至るまで続いていて、仕事にも実は支障がある。難聴がひどくなってきた頃とタイミングが合っている。ストレプトマイシンによる第8脳神経以外の神経障害もないとは言えないような気がする。そのうちにでも文献を調べようと思っている。

その他に、高所恐怖症と閉所恐怖症がある。高所恐怖症は思春期以前はそういうことはなかったが、次第に常にそのようになってしまった。最近では、宮崎の綾町の釣り橋は十歩も進むことができなかった。「腰が落ちる」ということは本当であった。閉所恐怖症は、そういう状況であることに気が付くと起こることがある。高所恐怖症でも閉所恐怖症でも生体反応として、先ずは循環や呼吸がおかしくなってきて、そのうちに「脱力」が生じてくるので、車の運転は危険となる。「パニック症候群」の状況である。今では、ある程度の長いトンネルは走ることができない。以前は、中部地方の非常に長い伊那トンネルも特に何の恐怖もなく走ることができたのだが、ある場所での強い不安感の「感作」を重ねることによって病気になってしまった。その場所は、まだ対面交通であった頃の九州縦貫自動車道の加久藤トンネルの辺りの連続トンネルだ。サッカーの試合が宮崎で開催される時は、この道路をよく走っていたが、次第に「パニック症候群」がおこるようになってしまった。残りの人生の間に、「脱感作」のトライアルをしようかなとも思っている。「パニック症候群」についても、ストレプトマイシンの中枢神経に対する微妙な障害の影響が加齢とともに出てきた可能性を疑うようになっている。

それと、50才頃からか、毎年冬になると皮膚搔痒症が出てくる。このことで、「ああ、冬が来た」と季節を感じる。特に、大腿前面に著明だ。入浴中と風呂上りに著明だ。かなり嫌な症状だが、面倒臭いので放置しているが、時に抗ヒスタミン剤の塗薬を付ける。もともと若い頃から、腹と腰の辺りが痒いことが多く、アレルギー体質のようだ。思い返せば、小学校に上がる前は、慢性の鼻閉・鼻汁で口呼吸をしていた。その頃の写真を見ると、口をポカーンと開けていて阿呆のように見える。記憶では、「蓄膿」といわれていた。その頃は、「蓄膿」という診断が溢れていたようで、実は大部分はアレルギー炎症であったと今は思っている。

開業してからは何度かの軽い怪我をしている。左右の足の小趾の末節骨は骨折をしているが、サッカーをしているうちに疲労骨折的になっていることで、これは特別の処置は不要だった。膝を傷めたり、大腿のハムストリングスやアキレス腱を数回以上負傷して困ることがあったが、この時に膝の装具が膝の保護に有効で、運動リハビリの補助具として素晴らしいことに気付いた。その経験から老人や婦人の変形性膝関節症のリハビリに積極的にお勧めしてきた(56号参照)。

52歳の時に右足の母趾の基節骨に圧迫骨折があって、これは相当痛かった。家の中で子供に腹を立てて、床に置いてあったランドセルを蹴ったのだ。予想以上に本がいっぱい詰まっていたので、骨折したのだった。踵歩きをしておけば生活が出来たので、放置して治した。自院でのレントゲン写真では、5mm程趾が短くなっていたが、かえって靴とのフィッティングが良くなったように思う。
49歳の時に、右の小指に突き指をして、末節骨の基部に小剥離骨折を起こした。町内のソフトボール大会で、ボールを受ける際に負傷した。若い頃は軟球での球に慣れていたので、それより大きいので勘が狂ったのだった。ちょうど伸筋の付着部の骨片が剝がれたので、整形外科で処置か手術をしないと指の変形が残ってしまうことが判った(Mallet finger)。しかし、痛いことは嫌なので整形外科に行かずにそのまま放置して治した。ところが、その7年後に右の薬指に同じパターンの骨折があった。これは、ワイフと取っ組み合いをした結果、腕力に勝る相手にへし折られたものだ。「君は外科医の指に何ということをするのだ」と小生が言ったらしい。この時も放置したので、変形が残ったままで治っている。小指や薬指だったので、多少の変形では日常生活への不都合はほとんどなかった。

私はマスターズ陸上競技もやっていて、59歳から練習をし始めた。すると60歳になって左坐骨結節部に有痛性の硬結が生じて、当院の理学療法士の治療を受けたが半年以上治らなかった。彼と一緒に調べたところ、坐骨結節滑液包炎(ハムストリングス症候群)との記載があった。いずれにせよ、運動で生じた損傷は手術をする程のものでない場合は、基本的には「時間薬」であって、筋力を低下しない範囲のリハビリやトレーニングをする他の妙手はないと思う。67歳時にマスターズ陸上の百米走のゴール手前で、左大腿ハムストリングスがブッチーンと切れて路面にもんどりうって転がってしまった。激痛で一歩も歩けずに、その場から他の選手に背負ってもらって医務室に行き、2時間くらいの初期冷却の治療をしてもらった。その後は、辛うじて駐車場に置いてある車を運転できたので、ドラッグストアによってサポーターなどを買って帰宅した。これも自然経過で治した。ただし、左大腿ばかりやられるので、完璧なリハビリが出来ていなかった、筋力の低下、ストレッチ練習不足、などの問題が慢性にあるようだ。

60歳の時に、自家用車を大破して修理不能となる自損事故を起こしてしまった。夜、診療所に戻る仕事があって、ハンドルを切りながら駐車場の車止めのところに前向きに駐車しようとしていた。ところが、誤ってアクセルを吹かせてしまって、車止めのコンクリートを乗り越えて、その先にある植え込み帯のコンクリート片や土片を撒き散らしながら、飛行機のカタパルト離陸のように飛び上がってしまった。そして、2メートル程下の県道に落ちて、前方の泌尿器科医院のコンクリートの壁に正面衝突して止まった。白い霧のようなコンクリート片がもうもうとしていた。たまたま、この一瞬には道路に人や車がいなかったので、他損事故にはならなかった。そして、さらに運が良かったことに、車は完全に水平を保ったまま着地してくれていた(透析が終わって泌尿器科医院の敷地にたむろしていて目撃していた知り合いの患者さんから、「カーアクションの映画を見ているようだった」と後日言われた。とにかく、怪我もなく体には全く影響がないように思ったが、やはり「全身振蕩」が強烈だったようで、車から降りた時には、痛くもないのに、多分数十秒くらいは膝や腰が割れて立ち上がれなかった。そして、嘔気が生じていた。直ぐに病室に上がって、副腎皮質ステロイド入りの点滴をしてもらった。プリンペラン錠の頓服と一晩のカラー装具(ポリネック)もしておいた。私は、鞭打ち損傷(あるいは、その予備軍)には副腎皮質ステロイドを、その後の炎症を強力に抑える目的で、初期治療として投与するのが良いという考えを持っていたので(ただし、タイミング的にもそういう治療を行う機会はそれまでなかった)、実施したのだった。その夜はもうどうもなかった。翌日の日曜日は市民マラソンの予定だった。絶対に大丈夫だと思ったが、もし出場して月曜日に休診する羽目になったら、言い訳がたたないので欠場しておいた。月曜日以後はやはり全く元気だった。
 
64歳の時についに面倒なことになった。今まで期外収縮(主に心房性)の出没があったが、不快で困ることはあったが、深刻には考えていなかった。しかし、発作性心房細動が初めて心電図で引っかかって、深刻な話になった。自覚的にも期外収縮に比べて、より不整脈感が強かった。この不整脈は脳血栓塞栓症の最も重要な危険因子で、ガイドライン上では抗凝固剤を予防投与することになっている。通常は一生続けることになる。この疾患については相当数の患者さんを扱ってきた経験もあるし、循環器科専門医にチェックを受けたことも何度かあった。自分の場合は、その後、何回も発作が再発しているが、抗不整脈剤を服用し出しているうちに数日以内に消失する繰り返しだった。自分においては発作が寛解した時点で、自己責任で抗凝固剤は服用中止とするオプションを選択している。心房細動の出現後に心腔内の凝固ができる場合でも、数日程の時間がかかって成長してくるという記載をこの拠り所としている。
心房細動は無自覚の場合も結構あるのだが、自分の場合は出現すると必ず自覚する。これは気分的には不都合極まりないのだが、他方で出没の状況が把握できるので、抗凝固剤のその期間だけの服用というオプションが適切だと判断している。自分については、今のところ、病院の専門医に意見を聞く必要性を感じていない。

昨年の69歳になった年は、冬からのアレルギー性鼻炎に引き続いて、初めて明確な咳喘息が自分にも出現し、驚く根拠もないのに驚いた。私の得意分野だった(12号・90号参照)。アレルギー炎症は、多分、幼少時と老齢時に起こりやすいのだろうと思われる。壮年期には免疫調整機構が安定しているので、少ないのだろうと考えている。
この69歳の時は、5月から8月まで心房期外収縮が続くようになり、気分がよくなかった。この間は抗不整脈剤を服用した。この間に発作性心房細動も再発した。

さらに、今年の70歳になった年は最悪の年だった。3月に咳喘息が再発したが、内服の副腎皮質ホルモン剤と吸入ステロイド剤を含む最強の薬剤を用いた。それでも、仕事に支障が出る程だったので、プレドニン錠(5mg)内服を一時は例外的に6錠までに強化した。3ケ月ほどでかなり改善した。この間は心房期外収縮の頻発も重なり、具合が悪かった。時々の心房期外収縮に加えて、8月には旅行の最中に心房細動が生じた。うっかりして薬を持って行かなかったので、抗凝固剤と抗不整脈剤は帰宅した2日後に服用開始した。次第に難治性のようになる傾向で、先行き不安になってきたが、幸いなことに数日後には整脈に戻った。しかしその後も、期外収縮という不整脈は出たり出なかったりだった。

この年の11月には、これに加えて左肋間神経痛の後で帯状疱疹が出現して、抗ウイルス剤の服用を行った。その後は、全般的に落ち着いてきたが、先日の12月の忘年会の朝から心房細動が再発した。この一年は不整脈防止目的で、禁煙だけでなく、完全に禁酒を続けていたが、夕方の忘年会の時には、ヤケクソ的な感じでビールや赤ワインを飲んでしまった。ずっと心房細動だったが、最後の挨拶をしゃべったりした後で、整脈に戻っていることに気付いた。そうすると、そのまま二次会にも参加して、赤ワインを飲みながら、長らく吸っていなかったもらい煙草を3本吸っておいた。それでも、心房細動の再発は起こらず、心房期外収縮もまれにしか感じなくなっている。(➜当院を退職して二ヶ月になるが、動悸の再発はまだない

結局、新旧のかなりの種類の抗不整脈剤を試みたが、最終結論としては不整脈の停止や再発防止に確実な薬剤は自分には見付からなかった。それ故、不整脈に対する当面の方針は、比較的規則正しい生活ということに落ち着いている(これは、実際に一番よい対策だと考えている)。そして心房細動が生じたら、その期間中だけ少なくとも抗凝固剤とジギタリス剤を服用することにしている。最近の専門家のご意見とは違うだろうが、長い歴史を有するこの極めて安価なジギタリス剤が一番安全で自覚症状の改善は一番有効であり(頻脈を確実に抑制してくれる)、さらに、心房細動の停止にもそこそこの確率で有効であることは古い教科書には明記してある。
今後、不整脈が常態化すると耐運動能が損なわれるし、不整脈中の運動は何某かのリスクを伴う可能性があるので、スポーツを断念せねばならないかもしれない。これはなるだけ避けたい事態である。カテーテル焼灼治療のことは、まだ本気では考えていない。

この2年間の体調不良の原因を推定するに、もちろん飲酒(私はビールをほんの少量愛用していた程度だったが)が不整脈の誘因になった感じのこともあったが、一番の因子は診療による疲労(この数年は診療による疲労が耐えがたくなってきた)と不規則な睡眠(睡眠不足)であろうという結論としている。以前から夜更かしタイプではあったが、最近の数年以上は完全な不眠症であり、そろそろ睡眠剤を服用し出そうか、もう少し非薬物的な工夫をトライしてみるかを考えだしていたところだ。
私の睡眠障害は入眠障害のパターンで、その一つの要因は(常ではないが)「腰のイライラ症」というものと思われる。この症状は、プリンペラン(注射薬)という制吐剤を点滴注入した時の副作用で生じる場合がある症状とそっくりだと思った。当院の患者さんの何人かに、点滴中にこの症状が出て混乱したことがあった。その後、自分の嘔気症の時に、自分の診療所でこの点滴をしてもらったらその症状が出現して、直ぐに点滴を抜いてもらったことがあった。ただ、プリンペラン錠の内服ではこの副作用は出現しない。この弱い症状が夜間の臥床時に自然に起こりやすくなっていると自己診断している。
プリンペランの薬剤説明書の副作用欄に、以前には長らく「焦燥感」というのが記載されていた。この用語は心理的な用語であり、この症状には適切なものではないが、製薬会社がよく理解せずに書いているのだろうと思っていた。別に、気持ちが「イライラ」しているのではなくて、腰が「イライラ」するのである。患者さんの副作用の時の事後聞き取りでもそういうことだった。ただ、最近この説明書を見直したところ、「じっとできない・そわそわ感」という用語に訂正してあった。いずれにしても、中枢神経や末梢神経ないし自律神経の変調による症状なのだろうと思っている。
その後、「アカシジア=静座不能」が適語であることは、精神科病院の先生が指摘し     
  てくれて、その病院のベテランのナースもこの症状名を知っていた 
その先生のアドバイスで、精神安定剤~睡眠導入剤のデパス錠を一度服用したが、最
  少量であったのに、翌日ずっと眠かったので、自分には入眠剤的なものは向かないと  
  思った) 
最後に、癌の検診については、結果的に毎年のように撮っている胸部レントゲン写真のみだ。1回だけ当院で胃カメラをしてもらった。大腸カメラと腹部超音波はまだしていない。腹部超音波は一度してもらおうかと思っている。もちろん、これらは毎年する方が良いことは判っている。調べたことはないが、医師というのは、自分の検診はあまりしていない人が少なくないような気がする。「医者の不養生」。

以上、患者の皆さんの心身の秘密を教えていただいたお返しに、私の身体の状態をお示ししました。主治医が、自分に対してはどういう対応したかが判って、興味深いのではないかと思います。ただ、私は「意味論的」な思考・判断に基づいた人生を歩んでいますので、多くの医師の代表者であることではありません。私自身は、この項目を書いているうちに過去の整理が出来て、有益だと思いました。

099 入院中の老衰的な経過の状況 (2016.12)

99.入院中の老衰的な経過の状況 (2016.12)
                
 (症例1) Sさん、男性、101歳で死亡(身内のかたです)
ほとんど内科的な病気には罹ったことはなかったのだと思います。ところが、平成6年に自宅で人事不省となり、基幹病院に搬送されました。95歳のことです。私が医師であることから、先ずは孫である妻と私が病院から説明を受ける家族として出向きました。小脳出血の診断でした。「高齢だから、もうバタバタしないでおきましょう」と言われました。
 多分、駄目だろうと思っていたところ、適切な治療をしていただいたようで、右片麻痺が残ったが、意識もきっちりと戻って、自宅に戻ることが出来ました、自宅は、運動器症候群の住居用に改築されました。ところが、平成7年の97歳の時に、傾眠傾向になり当院に入院することになりました。
 この方は、三人の娘と家政婦との四人のローテーションで、入院中の毎日のきめの細かい世話を受けていました。入院中の生活は穏やかなものでした。車椅子での移動は適当にしていました。秋の藤崎宮の大祭時には飾り馬を率いた会社の祭り装束を着た従業員が慰問に来てくれました。しかし、高齢であるので、徐々に数年にわたって老衰が進んでいったようでした。下記のようなその様子から、老衰の自然経過の実態を勉強させてもらいました。一つ判ったことは、高齢になって一日が24時間ではなくなり48時間になったり、伸びてくると理解できるようです。そうすると、慌てなくても良いと思うようになりました。このことは、それ以後の高齢者の対応に役立っています。
入院してから半年後には1食を欠食することが出てきて、そういうことが徐々に頻繁になってきた。その原因は主に入眠が続くからのように思われた。
最後の1年間は、1食から2食の欠食が普通になり、1~2日の全欠食が次第に周期的に定着するようになった。全欠食の場合は500mlの基本輸液のみしておいた。しかし、覚醒して食する時は10割の摂取だった。
死亡する2週間前の1週間は欠食4日・2食1日・完食2日で、最後の1週間は欠食6日・2食1日(死亡4日前)だったが、その2食は8割摂取だった。死亡5日前までは看護婦への「会釈」あり、4日前までは「笑顔」あり、2日前までは開眼の時あり。以後、喀痰貯留音が強くなるも、動脈血の酸素飽和度は92~95%で、そんなに悪くなかった。最後の1日は心電図モニターを付けた。最後の3週間は基本輸液のみ1000ml程度を入れて(入れ過ぎかもしれない)、最後の2週間は抗生物質を投入していた。死亡診断書の病名欄には「老衰」と書いておいたが、そのまま受理された。

(症例2) Mさん、女性、89歳で退院(近所の方です)
平成22年。認知症と腰痛(腰椎圧迫骨折)で入院中の88歳女性が、次第に傾眠となり、入院4週目からは2食ほどの欠食がはっきりしてきました。それまでは週2回のデイケアに通所していました。入院しているうちに、食事摂取量が数口というのが4週間も続きました。この間に「ゼロ」というのが2~4日続くことが数回ありました。補液目的の点滴1000mlだけはしていました。食べない理由は、やはり傾眠傾向のためでした。このまま大往生されるだろうと思いながら、家族と見守っていました。
ところが、その後次第に意識状態が回復しだし、入院後7~8週間目から全量摂取しだして、そのうちに退院してしまいました。全入院期間は半年でした。途中で、胃瘻による栄養を始めていたら、こういう普通に退院する契機を迎えることは難しかったと思います。

この方は、退院後、デイケアを週3回で再開していました。それから半年後の平成23年11月に体調不良となり当院に入院となりましたが、翌日に亡くなりました。89歳でした。この時は病状の把握はまだ困難で、家族も積極的な対応を希望されませんでした。

097 食べられなくなったらいよいよ最期かなと (2016.07)

97.食べられなくなったらいよいよ最期かなと、老衰のような場合は (2016.07)

 平成14年、入院中の97歳の男性が、昼間に意識を失いました。心電図で完全房室ブロックでした。意識回復した後で直ちにペースメーカーの植え込みを専門科に依頼しました。超高齢でしたが、非常に元気な方だったので、家族と話し合いで、私としては例外的にそうしました。なお、この方は、99歳の時に、ラクナ梗塞と思われる症状で、再入院がありました。けいれん発作とロレツが回りにくい症状でした。基幹病院にはお世話になりませんでした。頭部CTでは異状なく、症状は良くなりましたが、軽い肺炎を起こしました。そのうちに食事を摂らなくなり、今度は自然経過のうちに、一か月半で看取りとなりました。市役所の職員が百歳の祝いに来院する前日は、ご本人が緊張してソワソワしていましたが、お祝いをもらってほどなくして、穏やかに亡くなられた。前日まで甘酒を楽しまれました。

 10数年位前からでしたか、食事が出来なくなった老人に「積極的に」「胃瘻」造設をして十分な栄養投与で管理することがブームのようになりました。食べられなくなった状態や低栄養が問題の患者さんには以前は、「IVH」といって中心静脈から持続的な高栄養輸液をすることが多かったのです。他に問題がなければ、「永遠に」管理ができる可能性があります。これは、一つの「スパゲッティー状況」であるし、重大な感染を起こさないように定期的に穿刺し直すことが必要でした。一方、胃瘻から栄養を注入するのは「IVH」に比べると利点があります。つまり、栄養を胃に一日数回だけの注入で生理的に近いこと、造設術は一般に簡単・安全で、一度造設すると永続するし、苦痛はほとんどないのです。ところが、これにより本来なら大往生する高齢者が亡くなる機会を失するようになったとも言えます。

 一時的な原因で食事が出来ない場合に胃瘻でしばらく栄養維持をする場合は、状況が良くなれば胃瘻を閉鎖して通常の経口食事ができるので、そういう場合は積極的に考えることは素晴らしいことだと思います。ところが、精神状態も最早しっかりしない高齢者が、食事を摂れなくなった場合にも胃瘻を無自覚的にしようとする「流れ」がありました。小生は、その当初から「反対」でした。そもそも歳を取って食事を摂ろうとしなくなったら、大往生じゃあないかということです。生物学的にも哲学的にも、食べるという能力は人の存在と裏腹であると思います。最近になって、その「流れ」は反省期に転換してきているらしく、今頃になって偉そうにそういうアナウンスメントをするその領域の医師がおられますが、当初の想像力や哲学が足りなかったのではないかを反省してもらいたいと思います。

  当院では、入院管理中の高齢者がじり貧的に食事摂取が出来なくなると、家族と話し合ったうえで、「食べなくなるのが命の限界と考えましょう。当院では胃瘻は致しません」を随分前からの方針にしております。それに同意されない家族の場合は、ちゃんと別の病院に紹介します。当院での結末はどうかといいますと、①そのまま静かな大往生となる、②予想外に、また食べ始めることがある、の二通りがあります(99号参照)。結果的に②になったケースでは、早々に胃瘻をしていたら、「自然に食べ始める」というチャンスを失くします。


84歳男性は慢性に譫妄のある認知症の方です。平成25年、肺結核症が発症して専門病院に治療をお願いしました。3か月入院で排菌がなくなり、当院に転入院となりました。1か月前に胃瘻栄養が開始されていました。当院への入院半年後に胃瘻閉鎖しましたが、デイルームで坐って食事をする時が一番幸福であるように見受けました。誤嚥性肺炎のリスクをゼロにしようという対応を考え直した結果でした。それから1年間、ずっと食欲良好でパクパク食して、ある日デイルームで昼食を10割摂取された午後にスーっと亡くなられました。誤嚥が原因という状況ではありません。死因は確定されていません。

098 高齢者などの終末期に向かっての家族の心の準備 (2016.07)

98. 高齢者などの終末期に向かっての家族の心の準備  (2016.07)

最近は、自立度の乏しい心身状態の高齢者の場合は、「高齢だから人工呼吸(あるいは透析)までは希望しません」という家族の意見を引き出すような話し合いを病院が行っている場合を散見するようになりました。最近まではこういうことが曖昧で、超高齢者が急変して病院に搬送されて、とにかく当面の高度の緊急避難処置をしてしまう場合が多かったと思われます。その結果、家族も「ここまでは希望しなかった」という濃厚治療が止められないということが多かったと思います。
先ず、家族の側について、在宅で状態が不良になる前に予測が可能である範囲内で、「必ず救急車を呼ぶのかどうか」「看取りを第一希望にするのか」など、予め多少は念頭に入れておくことを勧めます(決めておかなくてもよい)。「かかりつけ医」と意見交換しておくのが良いと思います。そうなりますと、状態が悪くなった場合は、先ず「かかりつけ医」に電話するのが良いとなります。そこで、「予定通りの看取り」対応にするか、「いや、この場合は病院で診察や救命をしてもらった方が良い」との判断を協議することもあるでしょう。ケースバイケースです。
病院に搬送された時には、病院の診察の結果を聞いて、はっきりと家族の希望を述べるのが良いと思います。治療する側は「出来る」「出来ない」にかかわらず、治療がし易くなると思います。家族が何を考えているのか判らないのが最も困るところです。その結果、後で、ご本人に適切とは言えない治療をしたり、片方または双方の不満が残ったり、医療費が高騰したりすることになりかねません。家族が判断できにくい時は当然少なくないと思います。この時は、「お任せしたい」との一言が、「看取り的」にせよ、「積極的」にせよ、治療者に心置きなく最善の治療に集中することの後押しをします。
病院側は、年齢や心身の状態を鑑みて、積極的な治療が適切かどうかを見極めて、家族側に指針を示すべきだと思います。そうしないと、素人である家族に方針決定の最終判断をアドバイスが少ない状態で強いることになります。そうしますと、「そこそこ(相応)の治療を了承する」というのに罪悪感のようなものを感じ、「出来るだけ助けて下さい」と言うことになったりして、見通しのない濃厚治療が蔓延してしまうのでしょう。医師がその精神的な重圧を肩代わりしてあげることが、時に良いと思います。私はそうしています。
現在の我が国の医療はかなり、「自己防衛的」な面があると思います。検査や治療に不都合があるのではないかとのクレイムを回避するために、過剰な検査や治療をしてしまいがちです。実は、ご本人も家族も、「本当は医者に言いたいことがいろいろあるが、なかなか言えない」という場合が多いのでしょう。しかも、もし医師が立派な内容の診療を行っているかを検証されでもしたら、「最善ではなかった」ということも少なくないかもしれません。ただ、初めから医師の診療を怪しむような「悪意のない不信者」が問題だと思います。自分に豊かな知識や判断力がないのに、根拠なき過信をしていないでしょうか。小生の経験では、医師以外の医療関係者がいる家族の方にこういう事例が多かったですが、家族に医師がいる場合は、逆に、こういう雰囲気を消している場合がほとんどでした。小生もそのようにしています。任せた以上は仕方がないので、医師にストレスを与えずに治療をしてもらいます。
医療というのは、算数や理科を解くようなものではありません。いわゆるカオス的な要素を避けることはできないのですし、マクロ的には確率の高いことを信じて対応をしているので、全例に良い対応になるとは限りません。そういう中でも、個々の患者に対する個別性に留意してミクロ的な対応をしていかなければなりません。

当院に入院された高齢者の状況によっては、「もっと悪くなった時は、基幹病院に送ってほしいか」を家族に聞いております。「ここで宜しい」ということであれば、当院での最善を行う決意で対応します。しかし、この質問は、必要に応じて、こちらから数回することが多いのです。再確認だけのこともありますが、状況によりこちらの考えも変わることがあります。

096 健康や病気の良循環と悪循環は重要で、経済と似ている (201607)

96. 体調(健康や病気)の良循環と悪循環は重要で、経済と似ている      (2016.07)

経済活動は「生き物」と言われます。私が思い付くところでは、①消費者マインド(気持ち)により景気の勢いが左右されるのは、如何にも「病は気から」の如く、精神状態が自律神経や循環機能を介して身体の状態に影響を与えること(逆の方向も真です)のようです。しかも、その変動の仕方はしばしば「良循環」と「悪循環」を伴います。経済の悪循環の例として、不景気➜買い控え➜さらに不景気、が単純で判りやすい。末端の国民の多数は「判っちゃいるけど」買い控えてしまう。お金の少しある人は、こういう時にこそ消費をしましょう。自由経済に完全に任せていては「悪循環」により破綻に陥ることを危惧して、国家による資金注入することを「輸血」といい、その経済を輸血経済ということがあります。
経済と類似する身体の悪循環(および良循環)というのは診断や治療に物凄く重要なキーワードだと小生は認識しています。先ず、疾患などで栄養(血中の蛋白質、特にアルブミンの量)が不足してきた場合➜浸透圧の機序により体液が血管内から血管外に漏出していきます。よく判るのは浮腫(むくみ)の出現です。これ自身も鬱陶しいですが、あらゆる組織が同様に水浸し傾向になっているのです。➜各臓器の機能が大なり小なり低下する。程度により、肺における呼吸機能(ガス交換)が悪化して酸素不足になる。腸管では栄養の吸収機能が低下する。➜各臓器の機能低下が進み、かつ、低栄養が進む。見込みがある場合は、限定的に貴重な資源であるアルブミン輸液や全血輸血(貧血もある場合)を行うことにより、悪循環が良循環の転機にし得ることがあります。当院では時々実施しており、点滴直後から低栄養という状況は改善し、直ちに食欲が改善することが多いです。結果的に総医療費の節約になることも稀ではありません。
運動不足➜筋力低下➜以前よりも体動がしんどくなる➜さらに筋力低下、も同じことです。これについては肥満という悪循環因子が絡んでいることがあり、そういう場合はさらに厄介です。筋力低下については、僅かでも意味のある程度の負荷をかけて身体を動かす以外に有効な対策はありません。電気治療やマッサージだけでは筋力の回復は全く見込めません。膝の悪い人は専門的な治療の有無は別にして、自分ですべきことは筋力保持~アップのために「膝の装具をドラッグストアなどででも買って、使って歩くこと」です。下肢のもっと悪い人は「歩行器を用いての立位維持やその場の足踏み運動」が現実的で有効な対応でしょう。
心不全(肺が浮腫ぽくなる)や肺炎➜呼吸機能障害➜低酸素血症➜各臓器の機能低下➜原疾患の悪化、というのもあります。心不全の場合は、とりあえず「利尿剤」を用いて体内の水分を強制的に排除することで(低酸素血症の場合は酸素療法もする)良循環への転機ができることがあります。肺炎の場合は、薬物的には(抗菌剤は基本として)副腎皮質ステロイド(副ス)が良循環の契機になることも期待したいところですが、個々でその適用の妥当性を判断するのは悩ましいところです。理学的には去痰を的確にできるかどうかですが、これには言うほど確実な方策はありません。心不全より肺炎の方が治療経過の予測が難しいです。
頻脈(心拍数が多い)というのは様々な原因によって状況や対応が違うかと思いますが、心不全を契機とした頻脈の場合は、心不全➜(低酸素血症)➜頻脈➜ポンプ作用のさらなる低下・酸素消費の増大➜心不全の悪化➜頻脈の悪化、という悪循環が起こることが多いです。通常考えられる対策は、安静とファーラー位(胸部を挙上するような寝かせ方)の他、利尿剤・酸素投与・適量の抗頻脈剤などで良循環に転換することを期待します。これらによっても良循環にならない場合で、積極的な治療が適切と考えられる場合は、特殊な非経口的な心不全治療薬・ペースメーカー併用下の抗頻脈剤・一時的な人工ポンプの動脈内挿入・手術など、高度専門科ではいろんなオプションがあります。

咳喘息でも、アレルギー性炎症➜咳➜気管支粘膜への刺激➜炎症の悪化➜咳の悪化。大抵はいつまでも続きませんが、無治療では「いつまで続くかは」は判りません。

095 公的費用をあまり掛けない検診システムの私案 (2016.07)

95. 公的費用をあまり掛けない検診システムの私案  (2016.07)

主に、胸部検診について考えてみます。我が国の現在の胸部検診の実質的な主目的は「肺癌」の発見であります。立場により結核検診などと言うかも知れませんし、確かに肺癌以外の疾患が発見されて役立つこともありますが、それは副次的なものです。無症状の方が検診対象であるべきでしょう。国民個人に任せておくと自己検診など実際には受けない人が多いので、この検診をPRすることによって受検率を増やすようにしています。これは親切な話であるのですが、国の財政の状況と無関係の話でもありません。
ところで、会社に勤務している人は、毎年胸部写真をすることが法律で決められています。内科関連で医療機関に通院している人も1年に1回は胸部写真を撮るようにすべきだと思います。これ以外の胸部写真を撮る機会のない自営業・主婦・無職の人々だけについて考えれば、公的出費を削減できます。さらに、実施につては、生活圏にある病院や医院において1年に1回受検すればよいと思います。受検したこととその判定と指示という簡単な検診票(医療機関に置いておく)のデーターを役所に郵送すれば、それで1次検診が終わりということです。職場健診や通院で胸部写真を撮った人については、1年に1回は当該書類に記載して提出してもよいのです。現在のような、肺癌検診システムの多くは不要だし、そもそも高額な検診車(寄付が多いらしいが)などは不要になり、国庫出費は非常に削減されるでしょう。この案についての想定反論~疑義について考えてみました。
そのように簡単に言うけれども、実際は難しいのではないか?➜こういうシステムは既に運用されています。多くの予防接種(インフルエンザや肺炎球菌など)は、「医療」ではない「公衆衛生」のジャンルですが、最寄りの医療機関が請け負っています。受接種票に記入して、接種を受けて、その結果用紙は役所に送っておいて済むのです。これに係わる新たな建物や職員は特に投資することもなく、いつもの事務員、ナース、医師で済ませております。検診も同じことができるはずです。実は、成人病の予防について、現行の「特定健診」の導入前は「基本健康診査」という全く同じジャンルの健診がありました。この制度はこういう最寄りの医療機関を利用するという「経済的な」システムだったのです。ところがこれは市町村が実施の主体でありまして、世間が不景気になってきて、貧乏な市町村が予算投入を続けられなくなったのです。不景気になったから市町村の財政が持たなくなったからなのに、それを引き受けた国が「特定健診」のシステムを作りました。この健診も実施場所は従前と同じ医療機関なので適切だと思いますが、事後のデーター処理と生活指導を医療機関から切り離して行っているために、これについての人的および非人的費用に公的負担が追加されることになっています。国の財政状況が問題となっているのであるから、従前の「そこそこ」の程度の遣り方で充分であったと思います。
肺癌検診での写真の読影は特別の研修や経験のある医師でないと「見逃し」が増えるのではないか?➜現状では、1次検診機関でもそれに関する専門科の医師が携わっています。しかし、1次検診は自分で「それなりに自信がある」と「挙手」する医師を認めて実施したら良いと思います。実は、日本における診療科の標榜は医師の自分の判断による「挙手」なのです。現行システムでも1次検診で「少しでも」怪しいと思ったら2次検査機関に紹介するのであるので同じことであります。そもそも、職場健診や人間ドックで受ける胸部写真にその読影に専門の医師が関与していない場合がかなりあると思います。現実にはそういう「そこそこの読影」で可であることになっているのです。一般診療の場でも胸部写真は相当数撮影されていますが、多くは「そこそこ」なのだと思います。私はそれで容認されるものと思います。何故なら、費用や人材の負担を考えると、「そこそこ」が現実的だと思うからです。

費用も考えずにいつも「最高水準」を求めるのは、我が国の贅沢体質だと思います。しかも、「見逃し」「誤診」はレベルの高い医師であっても確率的には生じるものです。

094 健診とか人間ドックはどう位置付けたらよいか (2016.07)

94. 健診とか人間ドックはどう位置付けたらよいか  (2016.07)

検診とは特定の疾患の早期発見を目的とするもの(がん検診など)。健診とは健康診断のことで、法律による義務実施である職場健診や学校健診および最近の特定健診と、任意実施である人間ドックがある。調べたら、以上のように書いてありました。
ここで述べている検診も健診もともに「一応健康」だと思っている人が受ける検査のことでありまして、「症状があるので何か異常はないかな?」というのは当てはまりません。そういう時は医療保険制度の中で検査をしていくものです。
費用から見てみますと、義務健診は職場(または学校)という個人以外の他者による負担があります。人間ドックは基本的に利用する本人が費用を支払うものです。小生は、労働災害の防止目的なら会社が費用負担をすることは妥当かも知れませんが、一般健康維持という本人と国家の責任の案件のことに私企業が負担させられることが納得できません。そもそも、医療保険金の支払いの半分を私企業が負担したり、税金の源泉徴収の手間と負担を、感謝の言葉もなく、私企業に負わせているのも「考え方としておかしな話」だと思っています。
検診も健診もすればする程、隠れた不具合や異常が発見される場合が増えるので、そういう意味では良いことだと思います。「異常の疑い」がでて、精密検査をいろいろしたところ、結局「異常なし」であった場合の「面倒臭かった」とかの不都合さもないともいえませんが、そういう覚悟も含めてご本人が自主的に自費で行う人間ドックは「したい時にすれば良い」と思います。
ところで、検査の種類によっては、常識的な推奨頻度があります。例えば、胸部検診(レントゲン)を1年に3回も4回もするのは馬鹿げていると思われます。脳ドックであっても、一回充分な検診を受けて異常がなければ(少なくとも、先天性の脳血管異常がないのであれば)、何度もする必要はないのではないかと思います。しかし、何度しても自費だから他人に迷惑を掛けるものではありません。ただ、CT検査は僅かであっても、それなりの被爆線量があるので、これをどう考えるかです。MRI検査は人体への影響はないようですが、これが導入された時のことを覚えています。「あれを受けた後で頭の調子がおかしなった人がいるらしい」という風評が周囲の医師の間に面白半分で流れました。まあ、それ程「革命的な仕組み」の検査であったのです。小生は一回この検査を医療として受けたことがあり、異常がありませんでした。そういう小生ですから、検診としてのMRI検査を今後受ける予定はありません。異常を疑う症状が出現すれば、医療として受けようと思います。

ところで、公的補助のある検診や健診は事情が違うと思います。当クリニックは熊本県の肺癌精密検査の認定機関として20年程活動しています。現在の熊本市における認定機関は9機関で、当院以外はほとんどが基幹病院であり、多少の誇りを感じています。こういう小生が以下のようなことを認識しているのは微妙なところであります。すなわち、こういう公的な肺癌検診は米国では行われません。米国では、相対的な発見の数の少なさと、相対的な費用の多さを総合的に判断すると(つまり、費用対効果)、行わないという判断をしているのです。米国のことが全て正しいとは思っていませんが、我が国は「費用対効果」について全般的に無頓着過ぎると思います。国民からマスコミさらに政府に至るまでのこういう国民性は「美徳」なのか、「贅沢」なのかについての議論をする必要があると思います。ところが、ミクロ的な状況では、当院においてもこの検診で早期の肺癌を拾い出して基幹病院へ治療目的の紹介を毎年のようにしています。つまり、この制度の中では、個々の症例において、自分もするべき役割を真面目に果たさせていただいているという思いがあります。ただ、これに関連する我が国の人的や非人的費用を考えると、制度として疑問を感じているということです。(このテーマは5号でも書いています)

093 「特定健診と当院の検査の基準値が違うのは変だ」 (2016.07)

93. 「特定健診と当院の検査の基準値が違うのは変だ」と質問された  (2016.07)

先日、通院中の患者さんが特定健診の結果をもって来られて、「当院での採血の基準値と随分差があるのが納得できない」と疑問を述べられていました。小生も既に「これは不適切」であると思っていたことです。健診データーの基準値が厳しい方に変更されており、医療においては「良い値」であっても、健診では「要注意」として引っ掛けるのです。「予防医学においては、より早目に引っ掛ける方がよろしい」というのが国(それを支える学者、多数派なのかも知れない)の考えのようです。「医療費の増大を阻止するためには、早目に引っ掛けて指導して、疾患の発生を阻止するのが大切」との主張のようです。中央官僚は、白黒の付かない事象について、都合のよいデーターを取捨選択して作文する能力を評価される立場のようです。個々の官僚の業績は在任中に何らかの事業を起こすこと(多くは税金を食う)で決まるようです。ところが、どうせ人間は死ぬのであるから、今のような我が国の医療環境であれば、いずれ同じように医療費を食ってしまうという反論があるのです。私はこちらの意見が本当のように思います。国が推奨する職場における健康増進プラン(THP)も特定健診も、その仕組みに多くの税金が支出されることだけが確かなだけです。

仮に、早目に指導をするのが良い点があるとしても、他方で、余計な病的な意識を被検者に植えつけたり指導を受けさせたりしなくて良いと思います。いろんな人間ドックも検査値の基準値は特定健診のそれに合わせてしまっております。医療と健診において検査値の基準値が違うことは「面倒臭いこと」が伴います。

特定健診で一番怪しからぬと思うことは、医療機関に通院していて、かかりつけ医が管理させてもらっている患者にも「受検勧誘」の電話を繰り返し掛けてくることです。電話を掛けてくる地方の公的団体などの経済的な事情と仕組みについては小生も知っています(中央官僚の常套手段である補助金という飴と鞭です)。つまり、受検率が低いと減額されるので、実際に困るのです。それは判っているのですが、やはりこういう「受検勧誘」の電話は非常に不適切であると思います。

我が国の縦割り行政はあたかも「冗談」の趣を感じます。一方で「肺癌での死亡を減らしましょう」という役所があれば、同時に煙草を売っている役所もある(現在は民営化となっていますが)。一方で、「医療費の増大で日本という国が経済的に持たなくなるのではないか」という状況のはずなのに、他方で、世界一の長寿国を「さらに寿命を延ばして自慢しよう」という役所がある。特に、後者は現在進行形なのでもあり、「馬鹿じゃあないか」と思います。「健康寿命だけを延ばす」ことがまあ妥当なのかなと思います。国もこの概念を持ってはおり、予防医学を充実させることが「健康寿命」を延ばすと主張しています。しかし、単なる「作文」に過ぎなくて、実効がない可能性があります。少なくとも、もっと歳出の少ない仕組みに頭を捻るべきだと思います。


我が国の平均寿命が長いことの理由の一つは、国民皆保険とフリーアクセスのもとで、他の国では行わないような「高額の医療費を使い続けて無理やり生かしている」からなのではないのかと思います。否、それよりも日本の長寿の最大の原因は「単に、生活水準が素晴らしく良好」ということのようです。この総合力が長寿大国の秘密なら、それは素晴らしいことです。先進国でありながら富裕層と貧困層との程度差は世界的にみて、極めて少ない(不安を搔き立てて成立している多くの新聞とTV報道はそうは言わない。マスコミや識者のいう「貧困度」という指標の「計算法」は実態に合っていないような気がする。幸福度という別の指標もありではないかと思うが、贅沢感覚を植え付けられてしまった我が国の庶民の幸福度は残念ながら低いのではないかと思ってしまう)。



092 副腎皮質ステロイドによるリスクについて (2016.07)

92. 副腎皮質ステロイドによるリスクについて  (2016.07)

正しいバランスを取るために、今回は副腎皮質ステロイド(副ス)のリスクについて書いておきます。私は、「気管支喘息」における急性増悪は当然のこと、現在は遷延性の「咳喘息」にもしばしば1~2週間までの経口の「副ス」を処方しています(12号参照)。ある薬品の処方頻度が増えると、確率的に副作用の頻度が増えるのは自然の理ですが、許容を超えるような不都合な結果や、そもそも根拠の乏しい処方は避けなければならないと思っています。
「副ス」の副作用でよく言われているものについては、①感染抵抗性が減弱する、②胃潰瘍のリスクがある、③糖尿病が悪化する、などでしょうか。実際はどうかと言いますと、①は症例報告や総説などの論文において数多くの記載がありますので、無視はできません。ただ、適用や用量に気を付けて投与すれば良いと思います。原疾患における「副ス」の必要性の大小によって、その適用の拡大や縮小が判断されるものでしょう。②は相反するいろんな意見があるようですが、通常は普通の胃薬を併用する程度の対応だと思います。③は予め念頭に入れておれば良くて、対応は出来るということです。むしろ、長期投与の場合において(過敏性や自己免疫性の慢性炎症など)、「骨粗鬆症」のリスクについては(最近の骨粗鬆症対応の薬剤を併用していても)、回避が出来るとの自信はありません。
もともと免疫力低下のある方は、別の話であると思われます。特に、白血病のような場合は、有効な抗癌剤と「副ス」とが好んで用いられます。ともに有効であるといっても、いずれも免疫抑制をきたす薬品です。こういう場合でもこの2者の薬剤は用いられるのです。原疾患の治療に不可欠だからです。それで、状況によっては無菌室に収容するような対応がされることがあります。一方、膠原病の治療でいくら高用量の「副ス」を使用するといっても、無菌室に収容されるような事態は滅多にないように思います。
「副ス」はもともと体内から作られる副腎皮質ホルモン(副ホ)の同類作用の物質です。この薬をある程度の期間続けていると、体がホルモンの分泌をさぼってしまいます。「副ホ」は「ストレス学説」において、アドレナリンと並ぶストレス対応の重要なホルモンなのです。この状況でこの薬を急に止めると副腎皮質不全状態に陥り、ひどい場合にはショック(虚脱)のような状況になる可能性があります。
以上のような観点から、「薬剤情報提供書」に「この薬は急に止めないように」としばしば書かれてありますが、こういうのを「単に書き投げておくこと」はよろしくないと思います。書くのなら、「但し書き」を一緒に書いておかないと誤解の契機になるように思います。ある程度の投与量とある程度の服用期間の場合のみの話なので、そういう場合は、医師が患者さんにきっちりと説明することになると思います。咳喘息に対する短期間の治療の場合は、急に止めても好い状況です。
実は、別に「急に止めない方が良いことがある」という場合があります。それは比較的短期間の小~中用量以下の投与の場合でも、急に止めたりすると、当該疾患の病状が「ぶり返す」確率が増える可能性があると考えられます。膠原病やアレルギー疾患において、「副ス」で完全にコントロールできたとしても、そこから減薬していく場合に、徐々に減らしていっても、ある量以下に減ると、病状が再燃することは、やや常識的です。これを何度か確かめた場合には、「維持量」を設定します。私の扱うケースでは膠原病性の肺炎やアレルギー性の肺炎における治療の場合に普通に経験します。「減薬が早過ぎた」ので「もう一回投与量を増やしましょう」ということになります。急に止めた場合には、再燃がリバウンド的になる確率が増えることも危惧され、病状が急変する場合もありうることです。

話のついでに、膠原病で長期的な「副ス」を用いている人が妊娠したらどうしたら良いか、について調べてみました。端的に言いますと、原疾患の状態を安定させたままで、希望されている妊娠と分娩を産科の管理下で続けることが良いことです。つまり「副ス」を続けながら(多少減薬はするかも知れないが)ということです。産婦人科専門医の書いたものによりますと、詳細は別にしてプレドニン(5mg)換算2~3錠なら妊娠初期から服薬が続いていても特に心配ないということです。

091 副腎皮質ステロイドに対して正当な評価をしましょう (2016.07)

91. 副腎皮質ステロイドに対して正当な評価をしましょう  (2016.07)

副腎皮質ステロイド(副ス)は効能も多岐にわたっていますが、起こり得る副作用も数多く書かれています。この状況で一般の医師はなかなか使おうとしません(使わない方が立場上無難です)。素人の方も、「この薬は副作用が心配な薬だ」という情報だけ知っている場合が多い。しかし、この薬を普通にかつ適切に使えば大きい恩恵を与えることができるという情報は行き渡らないようです。
この薬剤は基本的に強力な「抗炎症作用」があります。多くの膠原病の治療には欠かせないものです。臓器移植にも「副ス」は併用薬として現在も重要です。「副ス」は極めて長い歴史と経験が共有されています。個々の場合において留意すべき副作用を念頭に入れておけば、充分だと思います。恩恵は絶大だが副作用は非常に少ないというべきでしょう。
大学の胸部外科勤務時代の話です。重症筋無力症という難病で神経内科の薬剤(大量の「副ス)による管理でも困難な症例に対して、胸腺摘出術を依頼されていました。小生は胸腺疾患の担当者であったので、手術の執刀と術後管理を研修医と一緒に任されることが多かったのです。術後に呼吸状態が必ず悪化かつ変動するので管理は高度の専門的対応が必要でした。大量の「副ス」(例えば、プレドニンの隔日16錠➜術後は連日8錠)を続行しながらの呼吸管理を行いました。手術というストレスのタイミングでは長期大量の「副ス」の減量は特に危険なので、減量しません。つまり、「副ス」大量投与中であっても手術は安全にできます。
「副ス」を投与するかどうか非常に迷った場合は、重症~劇症肺炎です。これは何度も遭遇しましたが、肺炎であるから「副ス」を用いると免疫抵抗力が損なわれて逆効果になりはしないかという(論理的には賢明そうな)判断ですが、多くは「投与時期を失ってしまった」という後悔とともに患者さんを失ってしまいました。「副ス」はつべこべ言わずに「炎症反応を抑え込もう」という薬なのです。現在の重症~劇症肺炎の治療のガイドラインには「有効な抗生剤を使用しながら」「副ス」を用いることが推奨されています。しかし、なかなか心理的に使いにくいのです。もし使用した「にもかかわらず」肺炎が悪化し場合にも、「副ス」を用いた「から」命を失ったのではないかと指摘される場合を考えると躊躇するのです。過敏性肺炎などと診断したものに対しては明確に「副ス」の適用です。
開業してからは、急性扁桃炎で近くの耳鼻科の先生からの紹介が何度もありました。「炎症がひどいから、抗生物質に併用して「副ス」の投与をお願いします」ということでした。小生はこの先生とは同じ考えで診療できると思っていました。
気管支喘息の急性増悪の場合は迷うことなく「副ス」を用いる必要がありますが、「細菌の感染によって喘息が悪化したのではないか」と思えばどうなるか? それでも「副ス」は用いるのです。劇症肺炎の場合と同じく、こういう場合に「副ス」を忌避するのは、火事の最中に「将来に重要な書類が濡れるから放水を止めてくれ」というのと似たようなものです。しかも、実際には免疫低下による不都合は(ないとは言えないが)、あまり遭遇しないのです。
大学の後輩医師が、重症化したマイコプラズマ肺炎に抗生剤と「副ス」の併用が適切であるという数編の論文を30年前に出しています。その考察では「そもそも重症化の原因をマイコプラズマに対する過敏な炎症反応に想定しています」。傾聴に値するように思います。実は、多くのウイルス感染による病状もこういう機序が重要だとは言われることがあります。

普通の風邪症候群は「ウイルスによる」と一般に言われています。しかし、口腔の常在菌のようなウイルスが本当の原因ではなくて、むしろ、物理的環境・疲労などが引き金になって局所粘膜の変調や局所の自律神経の変調が引き金ではないかと私は以前から考えています。皮膚や粘膜では成長とともに常在ウイルスや細菌に免疫学的寛容が生じて共存するようになっているようです。インフルエンザウィルスとかノロウィルスとかの明らかな感染性のものと風邪症候群は混同してはいけないと思います。風邪でさえも強烈な場合は「副ス」の使用はあり得ると思いますが、自分や身内以外には適用はしていません。

090 喘息と咳喘息(アレルギー性気管支炎)の最近の状況 (2016.07)

90. 喘息と咳喘息(アレルギー性気管支炎)の最近の状況  (2016.07)

喘息につては14年前(10号・11号参照)に書いています。現時点でも訂正することはあまりありません。既に、長期管理薬である吸入ステロイド(吸ス)と発作対応薬である吸入気管支拡張剤(メプチンエアーなど)の2者が中心になっていたということです。ただ、滅多に症状が出ない方は、症状が出る場合に早目にメプチンエアーで直ちに症状を抑えればそれで良いでしょう。1~2年に1回くらいメプチンエアーの補給に受診される方が散見されますが、それは望ましいことです。こういう状況の場合は、長期管理薬は不要と思われます。
その後は長時間作用性の気管支拡張剤の吸入剤や抗コリン吸入剤(主には肺気腫対応)が発売されましたが、前2者の吸入薬の登場と比較してインパクトは少ないと感じています。以下、咳喘息についてのコメントを追加しておきます。

咳喘息についても14年前(12号参照)に書いています。最近はこのような方の受診が毎日のようにあり、明らかに患者数が増えています。当院に最初に受診される方よりも他の医療機関で処方を受けた後の方が多いです。発症から1~2週間も経過していて、胸部写真で異常がなく、無熱の場合は、「臨床的に咳喘息である」と判断します。早く症状を緩和してほしいという当然の要望を尊重するために、副腎皮質ステロイド(副ス)内服を用いることが多いです。念のために、必要と思う採血検査も最初にしておきます。

半世紀前に比較して「スギ花粉症」が格段に増加し、アトピー性皮膚炎も増加していることも常識となっています。外界の空気の通り道である気管支(細気管支を含む)にアレルギーが格段に増えていることは当然念頭にないといけない。咳が1週間以上も続くのに、胸部写真などで(採血検査も参考)特定の病名が判らないなら、アレルギー性のものとの臨床診断を考えるべきでしょう。その場合でも、抗アレルギー剤と鎮咳剤や去痰剤を用いだけでは症状に改善のないことが多いのです。「副ス」だけが確実な症状の改善を期待することができます。2週間くらいかかってもよい場合は「吸ス」で治療を始めます。特に、妊娠中の場合は産科の先生と相談しなくてもよいように、そのようにしています。早期に改善したい場合は(これが大部分ですが)「副ス」内服薬を開始します。汎用の鎮咳剤(普通の咳止めや気管支拡張剤)を併用することもありますが、これらは実は強力な作用がないので、処方しなくても良いと思っています。「副ス」の内服薬を1~2週間くらい用いたら「今回は終わり」という場合もしばしばあり、「吸ス」を長期的に処方しないで済む場合が多いことは、患者さんにとって有り難いのではないかと思っています。15年以上も前に喘息専門医(金沢大学の藤村政樹先生)がちゃんと「咳が数週間も続く時には咳喘息を念頭にして、「副ス」内服薬(プレドニン20mgくらいから)を処方する」ことを書物にて推奨しています。なお、日本呼吸器学会から4年前に詳しい「咳嗽に関するガイドライン、第2版」が出ていますが、実地臨床的にはなかなか実用的とは言えない感じがします。


アレルギーかどうかにかかわらず、鼻炎の症状の「鼻水」「鼻づまり」「くしゃみ」は気管支炎に当てはめると、「痰」「息が重い~ゼーゼー」「咳」であります。つまり、この三つの症状は病因として分けて考える必要がありません。ただ、気管支の諸症状は、鼻や皮膚のアレルギーと比べて抗アレルギー剤の効果は悪いと小生は思います。また、気管支拡張剤(細気管支の拡張に有効)は典型的な喘息にはよく効いても、それ程細くない部分の気管支の症状である「咳」には効果があまり良くない。気管支拡張剤のエアロゾル吸入の刺激で咳が悪化する可能性があります。だから、咳喘息は「副ス」でないとなかなか早期に改善しないのです。「副ス」の吸入剤もエアロゾルよりもパウダーの方が刺激が少なくてベターと思います。

089 神経疾患の画像診断のことで専門外ながらに思うこと (2016.07)

89. 神経疾患の画像診断のことで専門外ながらに思うこと  (2016.07)

神経疾患についてはあまり判らないので、大抵は専門医に紹介しています。それでも二十数年も開業医をしていますと、感想のようなものは出てきます。86号で紹介した神経内科のU先生には神経内科の診察を依頼していた期間がありました。神経領域の先進国であるフランスで厳しい研修を受けた彼女によりますと、経験を積んだ医師がマニュアル(用手的)な診察をすると、神経障害をきたしている脳の病変部位を非常に細かく診断できて、その後に必要に応じて、画像診断でその診断を確かめるということです。然るに、現在の日本の趨勢は「画像診断に頼り過ぎるので、用手診断の訓練が疎かになっている」とのことでした。医療費に対する認識の差が両国にあることも、こういう差に顕れているのかも知れません。

MRIによって、脳の疾患の詳しい画像所見を得ることが出来ます。CTの診断能力はMRIに比べると見劣りがすると思われます(肺の場合ではCTの方が画像的に優れています)。診断費用はMRIの方がより高価です。特にそのCTについてですが、当院でも頭部CTは行っており、自分たちで画像診断していますので(専門医と比べたら読影も不十分で機器の解像度も低いものですが)、それなりの経験を得ています。
CT画像で病変の所見があっても、それが現在の症状の責任部位とは限りません。古い病変が映っていることもあります。新旧の診断も経験の積んだ医師なら精度よく判断できます。それでも、責任病変の部位診断は通常診察上の症候の所見が大きい比重を持つとのことでした。最近、医療費の適正な抑制という内容を書いていますが(86号参照)、本号で述べたいことは以下のことです。優秀な神経内科医師が診察をしっかりすると画像診断をする以前に正確な臨床診断が可能かも知れないが、現在の日本では自動的により高価な画像診断をすることが日常的です。「頭がピリピリ痛い」というだけで頭部CTの検査など小生はしたくありません。日本では、患者が画像診断上での確実な所見結果を要求するので、医師側もしなかった場合の「患者からのクレイム」のリスクを考えると、全部しておこうかなとなると思います。いろいろ述べてきましたが、実はこの点が一番の問題点かと思います。

先日、内科疾患で通院中の70歳台の女性が当院の建物の中で転倒して額に「タンコブ」を作りました。特に神経症状もなかったし、頭蓋内の問題はまずないようだと判断して、しっかり者の彼女をそのまま帰しました。頭部打撲の方にはその後の留意点(慢性硬膜下血腫など)のパンンフを渡しています。その数日後に無症状なのに、家族が心配して別の病院に受診させて頭部CTをしています。いろんな考えがあろうと思いますが、患者側の医療費の無駄使い感覚がかなり問題になってきていると思います。こういう観点からは、一部負担金の額が少ないのだと思います。一部負担金ゼロなどは幼稚な議論だと思います。国も医師会も「世界に誇る」という国民皆保険は、持続可能なら小生も破綻しないでほしいと思っています。医師会が自画自賛する「フリーアクセス」は間違っていると思います。フリーアクセスを本気で抑制する方策を取らないから、無駄な検査や無駄な投薬が積み重なるのです。その基本を変えないで、実に面倒な誘導政策で検査と投薬の抑制をしようとするが、医療機関(医師・事務員)の疲弊をもたらして、実効が期待できない下手糞な政策だと思います。

脳疾患の病変の部位は特定の神経症状や麻痺などの症状部位によって診断され、疾患の種類(卒中、腫瘍、外傷、炎症、変性疾患など)は発症の時間的経過によって診断されます。極端に言えば、問診と診察をしっかりすると(小生独りでは後者も十分には出来ません)、大体の診断は高い確率で可能のようです。小生がしばしば胸部X線写真をそう位置づけるように、頭部CTは「イロハのイ」の検査なのかといえば、今のところ、ケースバイケースかなと思います。


088 肺や心臓の聴診についてのお話 (2016.06)

88. 肺や心臓の聴診についてのお話  (2016.06)

医師、特に内科系の医師というと、その象徴は聴診器でしょう。聴診器についてのエッセイを書いてみます。近代医学の最初の頃の診察は理学的診察といった視診・聴診・触診くらいしか手段がありませんでした。現在の聴診器は非常に集音効率が良いのですが、素肌に完全に密着して当てないと聞こえません。また、薄い肌着の上から当てても、「ザーザー」という摩擦雑音が邪魔をして、心音や肺音はよく聞こえません。最近の女性は「肌着の上から聴診せよ」といわんばかりですが、聴診器は素肌に当てないと無意味です。また、ブラジャーも医療上は外すべきですが、「外してください」と言えば、こちらが鬱陶しくなるような顔をされるのがオチなので、それは許容しています。診断上の不都合はあまりありません。

私は呼吸器外科を専攻しました。指導を受けた先生はいろんな患者さんの聴診を小生にさせて、詳しい解説を繰り返ししてくれました。ところが、大抵は「よく判らないなあ」というのが実感でした。小生は幼少時からの不治の耳鳴りによって僅かな聴力障害があるので(ストレプトマイシン副作用)、判りにくかったかも知れません。実はそれだけではなく、経験豊富の名人が「これはこうだ」と言っても、新米の方はそれを検証する術はないのです。名人芸的な面もあるし、免許皆伝的なところもあり、小生には苦手でした。

半世紀くらい前、時の東大教授(神経内科?)が退官時の「私の誤診率は何十パーセントでした」という発言が世間を驚かせました。「むしろ名人だからこその発言」という大方の評価だったように思います。しかし、「名人芸的な要素が大きいほど(その頃の医学レベルでは仕方がない)、やはり誤診率は高いのだろう」と思います。肺の聴診で「ここに胸水が貯まっているようだ」、「この部分に肺炎があるようだ」とか疑っても、胸部写真で確かめない限り、「全くあやふや」であることを何度も思い知らされました。肺や心臓に何か問題を感じた場合、胸部写真を撮影しておかないと後で後悔することになります。胸部写真は検査としては廉価なうえに何枚撮影しても全く安全です。「イロハのイ」の検査です。

しかし、本気で肺の聴診をする必要を感じれば(ある理由で胸部写真を撮らない場合など)私も呼吸器科診療の経験者としての対応をします。普通の聴診に加えて声音聴診といって「アー」と発生させてそれを聴くことも多いです。これによって、気胸、胸水や無気肺(肺炎や腫瘍も含まれる)の範囲の推定が出来ます。打診は心臓の大きさの推定の参考とするのでしょうが、格好付けにしている医師が多いと思います。本気で考えるのなら胸部写真で評価すべきだし、常は視診などの診察全般で心不全の悪化の有無を推定できると思います。

心臓の聴診は以前から肺に比べて優れて解析的な集積があります。電子機器も発達していて心音聴診の名人芸のところも心音図というグラフで検証できますし、古くから心音聴診の訓練用のテープが発売されています。小生も以前買いましたがやっぱり感性と集中力がないので全く進歩がありませんでした。しかし、現在では心音聴診は診断の入り口に過ぎなくて、心疾患の評価や方針決定は、診察上の心不全の程度の評価と心エコーや心臓カテーテルによる評価によります。

心エコーでさえも、診断が付いた後では、検査代の要らない理学的診察の方が治療方針の判断に重要である場合が多いと思います。小生は自己流ながら年間200件は心エコーをした時期がありましたが(透析患者さんのデーター取りの依頼が65%と大部分でしたが)、この数年は年間1~3件です。心エコー自体の所見で診療方針を変えるようなことがほとんどなかったから、正直なところ歳もとったし面倒臭くなりました。プライマリー診療では、通常の視診・触診・胸部写真・心電図・採血検査・検尿などが結局は重要と思います。

087 「1時間待ちの5分診療は不適切」なんですか? (2016.06)

87. 「1時間待ちの5分診療は不適切」なんですか?  (2016.06)

当院のような診療所でも、「1時間も待たされて数分以内」ということは稀ではありません。最近、厚労省の方から一人5分以内なら支払減点という考えが浮かんだようです。この問題だけでなく、厚労省は、「物理的にしんどいことをしなかったら減点」という愚劣ともいうべき政策を取り続けてきました。それに反論してみます。能力が低いけれど真面目な医師(開業当初の小生)が30分掛けて一人の診療をやっとこなしたとしても、経験と能力のある医師なら1分でもっとしっかりとした診療を済ませることができます。一番いけないのは能力が低くて不真面目なパターンで、この場合は時間も短く内容も低い。逆に経験のある医師でも、ある患者さんの場合では診察だけで30分も掛かってしまうことがある。体制内で出世するような中央官僚は自分自身は「親方日の丸」で、現場の工夫や苦労のことが判らないし、判ろうともしないのだろうと小生は不満を持っています。

診療時間とは何か? 患者さんにとっては「診察室で医師に直接対応してもらっている時間」ということが多いのかなと思います。医師が直接関与する点であっても、診察室に引き入れる前に「問診票」とかカルテの以前の記録を読んでいる時点で始まっているのです。患者さんが診察室を出てからも、頭を再度整理してカルテに記録したり、処方内容を吟味して処方箋を発行したり、検査の場合は検査内容を吟味して書きます。つまり直接対応よりも長い時間を費やしています。小生は、開業当初から、長く待たせることが「脅迫神経症的に」嫌なので、しばしば、一番時間が掛かるカルテ書きを省略して、診療時間が終わってから書くことがあります。小生は紹介状の手紙を書く時でも、適当な長さで終える能力がなく、かなりの量の文章を書いております。相手の医師が「びっくりした」というのを何度か伝え聞きました。こういうことも査定に反映することは難しいです。理念的には、「診療の質」で査定すべきです。しかしこれは実際的・技術的には不可能です。質的査定無理です。

現在の小生の診療の実態を書いておきます。直接の診察時間は極めて短いものです。自分の得意分野では、診療のポイントが出来ているので、短時間で判断が下せるし、自分の不得意分野では、当面の対応で様子をみるか早く他医を勧めるかの判断をするので、それにも時間があまり掛からないのが普通です。内科的な患者さんの場合、診察室に入ってきた歩き方で足腰の状態をパッと判断する、顔色や表情や全体の感じをパッと判断する、ナースの付けた血圧・脈拍・体重・体温をパッとみる、必ず、下肢を触って見る(成人病や老人の診察には最重要だと思っています)、これらのうちで気になる点が見つかるとチェックします。問題がなくこれで終わったら1分で可能です。慢性疾患の定期処方を受けに来て安定している場合はそういうことになります。
臨時受診の方には、今日は「何をして欲しくて来院したか」(症状だけを聞くでは終わりません)を確かめます。問診表への記載とナースの予診でもこの「来院目的」を重視しています。なお、他の医院の処方内容や検査結果を書いてあるものがあれば、これらは必ず参考にします。小生は、最近あった検診や他院の採血データーは客観的データーであるので、尊重して(しばしばコピーします)無駄な採血検査はしません。


随分前から小生は聴診器をルーティーンでは用いません。聴診器を用いないことは全然自慢すべきではありませんが、それ程非難されることもないと思います。上述したような観察をきっちりすることの方がいい加減な気持ちで聴診の格好を付けるより、概ね確かです。聴診器を当ててはいるが、耳に差していないことを患者さんに指摘されて恥をかいた知人の医者を知っていますし、下着の上から聴診(心音や肺音は聞こえていない)をしている医者を見たことがあります。つまり、聴診はしばしばセレモニーになっています。

086 医療費の高騰の原因の一つは安易に検査をし過ぎること (2016.06)

86. 医療費の高騰の原因の一つは安易に検査をし過ぎること  (2016.06)

医療費のことを考えると、「医師を増やすと医療費が増える」とか、「検査機器を増やすと医療費が増える」というのがマクロ経済的に正解です。そのことを医療の便利さと費用の高騰とのバランスからどう考えるかの、突き詰めれば哲学の問題になると思います。外国(ここでは、「欧米先進国の多く」という意味)で、当院のような一般診療所にCT機器があるのは日本だけと思います(恥ずかしい)。何度か一緒に仕事をした熊本大学出身のU先生はパリ大学で数年研修をした、実際に臨床的に非常に優秀な神経内科医です。20年ほど前の彼女の話では、パリでは例えばMRI機器のような高度なものは1カ所のセンター的な施設にしかないそうです。CT機器もある程度大きい病院にしかないということでした。

二十年ほど前にオランダのAさんから聞いた話。彼女は大学院での日本の農業の研究のために数週間の予定で玉名郡の方に滞在したところでした。病気になり当院に受診されましたが、急性肺炎でした。Aさんの希望(入院は嫌)により、銀座通りのホテルを紹介して、毎日抗生剤の点滴に通院して順調に経過しました。帰国前に来日した夫と小生夫婦を夕食に招待してくれました。夫は国際金融の仕事をしていました。その時に、両国の医療の現状について雑談しました。Aさんは日本の医療は非常に素晴らしいと思うと言ってくれました。特に印象深かったのは「オランダでは肺炎でも2週間に1回くらいしか胸部写真の検査はできないだろう」とのことでした。オランダの話は多くの西欧での状況で、日本だけが多分違うのであろうと推測しています。

両者の違いは国民の「考え」の差であると思います。患者の利益のために診断の精度を限りなく上げたい(費用は出来高支払で天井なしもあり)なら日本型であるし、国家財政的に身の丈に合った検査メニューなら仕方がないというのが外国型であるように思います。Aさんの発言もオランダの制度への不満ではありませんでした。理性的に納得されているようでした

小生が患者を病院に紹介させてもらうと、たとえ最近の当院からの検査結果を提出していても、それに構わず決まったような多くの検査項目をされます。画像検査も採血検査も必ずフル項目でされてきます。「抜けのないチェック」をしようという意味は分かりますが、出来高支払い医療制度の様相でもあろうかと思います。
「成人病T細胞性白血病」で世界的に高名な熊本大学名誉教授の高月清先生は京都大学時代からかわいがっていただきましたが、「アミラーゼ産生骨髄腫」の症例についての最初の発表者だそうです。当時は「血液系の腫瘍が消化酵素を産生する」という多少のインパクトがあったのでしょう。高月先生の口から直接聞いた話では、この話を外国で講演すると必ず受ける質問が、「骨髄腫の患者に何故血清アミラーゼの測定をする必要を認めたのか?」ということです。日本では、とにかく普通の検査項目は全部しておこうとなるのですが、外国では直接関係のない項目は「無料ではないのだから自動的には行わない」ということです。「日本だからこういうのが見付かりやすいんですねエ」と笑っておられました。


小生は各国の医療制度の詳細については多くを知りません。それでも一寸書いておきます。米国は「特殊国家」ですから、直接には日本の参考にしない方が良いと思います。歴史も日本と匹敵する欧州が参考になると思います。ただ、人口が少ない国が多い。政治・経済や医療などでは「スケール効果」というのが大きいので、欧州で成立できるような医療制度が1億人以上の日本には成立が難しいと思われます。日本の諸制度の改革には単なる模倣は良くないと思います。先ず、「義務と権利」「自由と平等と公平」とは何かについての理解と覚悟をし直すことが肝要だと思います。結局は、教育とマスコミの問題だと思います。

085 薬剤処方の適正な匙加減に医療費の支払いを拒否される (2016.06)

85. 薬剤処方の適正な匙加減に医療費の支払いを拒否される  (2016.06)
 
薬剤の説明書には、「効能」「投与量」が記載されている一方で、「使用に慎重であるべき病名」や「使用してはならない(禁忌)の病名」が書いてあります。しかし、実際に適切なオーダーメイド投与においては、主治医の裁量と責任で投与量の逸脱をしたり(投与量に関しての記載では医師の裁量が認められていますが、支払基金には無視されています)、禁忌とされる病名でも使うことがあります。こういう場合に、「薬剤情報書」を読んだ患者さんが処方する医師に不信感を持たないように説明することがあります。
加えて、医療費削減を第一目的としている支払基金は、薬剤の説明書の通りでないと絶対にその薬剤の医療費を支払ってくれません。いくら「最新の医学ではこうなっている」とこちらから説明書を提出しても駄目です。支払基金を担当する医師の人達はどういう知識を持っているのかなと疑問に思います。以下、当院のような診療所でも扱う例を示してみます。

アテノロールなどの薬は国によって降圧剤・狭心症・不整脈に対して効能が認められています。こういう種類の薬(β交感神経抑制剤)は長い歴史の間にその作用がよく理解されているものです。主に、心臓の収縮のリズムを遅くして、かつ収縮力を抑える働きがあります。別に、気管支を収縮する傾向にあります。それで、禁忌に「心不全」と「喘息」と書いてあります。ところが、心不全の一部またはかなりの症例においては、「今は僅かに心臓をさぼらせておくことで心臓が長持ちする」ということが判っており、最近では投与(通常量の8分の1とか4分の1もよくあります)によって、予後を良くすることは日常茶飯事的に行っています。もちろん、最初は専門学会の指針を専門医の先生から教えてもらったものです。この処方の支払いはしてくれないので医療機関の「手出し」となります。この金額は些少でありますが、「支払は認めない」という書類が来るので、不愉快なのです。

こういうβ交感神経抑制剤を用いて高血圧・狭心症・不整脈のコントロールがうまくいっている人に喘息が生じたら病名上困るのです。その時点でこの薬は「禁忌」になってしまうのです。最初の病名に対しては代替薬の適切なものがないこともあるし、代替薬があっても管理がピッタリになるまでの試行錯誤期間が長引くこともあります。実際のところは、経験を積んだ医師ならば、β交感神経抑制剤を止めずに適切な喘息の治療を継続すれば良いのです。それが医師の匙加減です。当局(支払基金)は「禁忌薬」として、認めないのです。

このβ交感神経抑制剤は、「糖尿病は悪化する可能性があるので注意して用いること」となっていますが(これは禁忌ではない)、支払いを拒否されています。その糖尿病には「副腎皮質ステロイド(副ス)」は「禁忌」とされています。ところが、実際はいくら糖尿病であろうとも「絶対に「副ス」を用いるべき」なのが稀ではありません。使用しなければ重篤化(場合によっては死亡)する場合(喘息やその他の重篤なアレルギー疾患など)や後遺症が残る場合(顔面神経麻痺など)などです。糖尿病の症例で「副ス」を用いる必要のある場合は血糖をモニターしながら糖尿病の治療を続けるまたは開始するのですが、軽度の糖尿病の場合は外来でモニターしていて結局、多少糖尿病は悪化したが短期間であったので特に糖尿病の治療を要しなかったことが多いです。一方、既に相当糖尿病が悪い場合は入院してから「副ス」を使います。糖尿病は血糖のモニターをしながらインスリン投与を一時的にいたします。ということで、「禁忌」とか「投与量」とかは書いてあることが絶対の真実ではないのです。

以上のような、医療費のしばしば細かい額の支払い拒否をしておきながら(塵も積もれば山となる、ですが)、高額の治療法や高額のしばしば不必要な検査(次第に増える)を野放しするような了見では我が国の医療保険システムは持たないと危惧しています。


084 漢方薬について以前から思っていること (2016.06)

84. 漢方薬について以前から思っていること  (2016.06)

小生は現在、芍薬甘草湯を下肢痙攣症に好んで用いていますが(頓服的な効果があるようなので、長期服用は期待していません)、他の領域でも「この漢方薬はこの症状に良く効く」ということは、かなりあるのだろうと思っています。しかも、本業が不振のためにサプリメント市場に参入してきている食品メーカーや製薬会社などの過剰な宣伝とは違って、漢方(中医)というのは、それこそ「中国四千年」(この表現は鵜呑みにするのも好きではありあませんが)の先人たちの膨大な経験と哲学の蓄積があります。

ただ、支那や倭国の哲学や方法論は西洋のそれらとは随分違います。中医であっても我が国古来の武術や芸能であっても、秘伝や極意を多くの弟子の中で指名された数少ない高弟に継承される形を長らくとっていたように思われます。ところが、西洋医学というものは、カリキュラム化された教育と実習をクリアすれば、「唯の人」であっても医師として医療を実践できるというものです。「唯の人」というのは、特別に優秀な頭脳や技量がなくてもよいということで、余程の「出来が悪い人」でなければ、医師としてなんとかやっていけるということです。それだから、西洋医学は発展したのです。「西洋医学の補完として漢方の意義がある」のは一般的にはそうなのでしょうが、以前から気になってきたことを列挙しておきます。

 私も、開業した時にはそういう考えで、漢方の教科書や教養書を手に入れて読んだりしました。しかし、漢方の治療は「証」という体質に対する「物差し」で決めるというものです。「西洋医学には乏しいオーダーメイド治療になる」ということでしたが、この「証」が客観的には判りにくい。免許皆伝的な臭いがある。一寸くらいの研修では「自分が一人前になった」とは思えない。然るに、現在では漢方薬をそこらの一般医が相当数処方している。このギャップが大きい。結局、製薬会社や関連学会の意見の通りに処方している医師が大部分であろうと思われます。本来、西洋医学的な病名では漢方処方は決まらず、個々の患者における「証」によって決まると言いながら、現実は制度上でも病名で規定されていますし、実際上も病名に依存しており、漢方薬は西洋医学と同じ土俵で処方されています。

 漢方薬は以前においては薬局では販売されていたのが、昭和51年に保険適用になりました。通常の個々の薬剤が保健薬適用を受ける時には、詳しい基礎データーを揃えて認可を受ける仕組みになっていることはご承知の通りです。それなりの開発費と開発時間を製薬会社に負わせているのです(ジェネリック薬品は別です)。然るに、漢方薬はこれらを「超法規的に」免除して適用になっているのです。以後、ずっと審査は「素通り」のごとくなのだと思います。当時の日本医師会と政府の指導力で行われたものと思われます。小生は、大手の漢方製薬会社への天下り役人の存在と役割の有無を検証すべきだと思っています。

 こういう制度上のいい加減な保険適用になった漢方薬について、最近、保険適用を外そうという動きが政府に出てきています。もちろん、医療費全体の増大をどこかやり易いところから手を付けようという政府の思惑なのです。もともと、保健導入の経緯に問題があるのですから、これについてはそうすべきだと私は思います。小生は多分「非常に少数派」の賛成者です。昨年、日本臨床漢方医会がそういう動きに対して反対声明をだしています。しかし、前号で書きましたように、「効果が不明な場合に直ぐに中止することもせず」、医療費を無駄使いしているのではないか」という反省を先ず学会関係者がすべきではないかと思います。

 「漢方には副作用がほとんどない」とか「漢方は体質の薬だから、ずっと飲み続けないといけない(サプリメントと同じ感覚)」と思い込んでいる人が多過ぎるように感じます。医師自身がそう思っているのであれば、それは医師側に認識の問題があると思います。

083 当院に品揃えしてある薬剤の現状から判ること (2016.06)

83. 当院に品揃えしてある薬剤の現状から判ること  (2016.06)

前号の記事を書いていて、本稿を書こうと思いました。ずいぶん以前に調剤薬局を利用することを考えました。しかし、同一敷地内には出店できないという規制を作られたために出来ませんでした。少し離れた所では、雨の時に老人が困ると思いました。

現在の疾患領域別の内服薬在庫の現状は次の通りです。①抗菌剤17種、②抗炎症剤16種(抗アレルギー剤を含む)、③呼吸器薬6種、④循環器薬57種、⑤消化器薬42種、⑥向精神薬31種、⑦代謝疾患薬32種、⑧ミネラル・ビタミン剤14種、⑨泌尿器薬5種、⑩麻薬6種、⑪漢方薬5種、などです。内服以外は次の通りです。坐薬6種、吸入薬8種、点鼻点眼薬など10種、皮膚塗布薬14種、湿布薬10種、注射薬はここには書きません。内服薬は230余種類も納入しています。「結構多いなあ」と、ため息が出ます。

私が一番目立つと思うことは、③の呼吸器薬が極端に少ないことです。私は長年、呼吸器外科➜呼吸器内科を主標榜しているにも拘わらずです。炎症疾患の多い呼吸器領域は①抗菌剤と②抗炎症剤が主力の薬剤なのです。つまり、主に鎮咳・去痰・呼吸改善などの呼吸器関係の「対症薬」が極端に少ない。実はこういう薬は役に立っているかどうか検証が難しい。肺炎の症状は根本の炎症を抑えるのが一番強力な対症療法です。喘息関連疾患も炎症を確実に抑える副腎皮質ステロイド投与が一番強力な対症療法であるのです。抗アレルギー剤に関しては、随分以前から喘息には通常の抗アレルギー剤よりも抗ロイコトリエン剤というのが学問的に良いはずだとの製薬会社の情報や専門医の推奨などがあり、他の医療機関ではしばしば用いられています。小生も以前から処方を試みていますが、高額薬のくせに効果がある感触はあまりなかったのです。この薬剤は、現在では、微妙な判断をしている5人の患者さんに処方をしているだけです。

「鎮咳剤」は「咳が軽くなるかも知れない薬」であって「咳が止まる薬」とは限りません。「去痰剤」も痰が切れるとは限りません。そもそも去痰剤というのは蛋白分解の酵素剤という蛋白質のはずで、こんなものを服用しても血液に入る前に胃腸で分解されてアミノ酸になってしまうはずなのに何で効くのだ! 異質の蛋白質がもし分解されずに血液に吸収されるとアレルギー反応がおこることが危惧されます。サプリメントのコラーゲン服用も同じく馬鹿な話だと思いますが、自費で買っているので、この場合は「阿呆だなあ、しかし、景気対策に貢献しているのかな」と傍観して済む話です。

他方、普通によく用いられる抗炎症剤(NSAID)は解熱や鎮痛に確実な効果があります。抗アレルギー薬も目・鼻・皮膚の症状に効果が期待できます。また、抗菌剤と副腎皮質ステロイド剤は適用が間違っていなかったら、最も根本から状態をよくし得る薬剤で、医学の歴史を俯瞰しても重要な双璧の薬であろうかと思います。廉い薬の入手が容易です。


漢方薬は全て否定するものではありませんが、かなりの部分は「逃げの処方」「患者を納得させるための処方」として、莫大な医療費の無駄使いを行っているように思います。漢方薬であってもなかっても、対症薬であるのならば1カ月程度使っても効果がはっきりしない薬の処方は中止すべきだと私は思います。漢方薬は元来、主に病名でなく症状に対して処方するはずです。小生は以前5~6年以上、咽喉症状に好んで「半夏厚朴湯」を処方しましたが、その後次第に最初に思ったほどには効かないような感触を得て止めました。風邪症候群に「葛根湯」というのは薬局での話にしてほしいと思うものですが、他医でしばしば処方されています。

082 高価な薬剤を頻用すると日本の医療は維持できない (2016.06)

82. 高価な薬剤を頻用すると日本の医療は維持できない  (2016.06)

我が国では「薬を飲む」ということを否定的な方々が多いように思います。その一方で、「健康食品」の類いを過度に期待する風潮があります。これは「不健康な考え」だと思います。内科的な疾患に対する最も有効な手段が結局は「薬剤」です。こういう認識に基づいて、このコラムでも何度も薬剤による恩恵について書いてきました。しかし、「良いものなら費用がいくらかかってもでも良い」というのは、どの領域においても持続可能な方策ではありません。

慢性腎不全に対する人工透析療法、難病に対する高額な薬剤などを含む治療法、臓器移植治療など生命の存続か否かに直結するような領域について、費用が高すぎるからどうのこうのと言及することは慎重にならざるを得ないのですが、それでも日本の国民皆保険制度がこのままでは維持できなくなってしまうのでは元も子もなくなります。今後の医学の方向は、「持続可能な費用で行えるような優秀な薬剤や治療法の開発研究」という費用と効果の両面という哲学で行わなくてはならないと思います。今後もし、iPS細胞による治療が発展する場合でも、パイロット的な治療の試みについては「いくら費用が掛かっても試みる」ということには基本的に賛成ですが、これがもし成功すると、一部の人たちが(主にマスコミを通じて)直ぐに保険適用を求めてくるのが問題だと思います。

しかし、実はもっと身近な治療領域の中で、専門学会や厚労省の医療費節減という観点が甘いから、医療費が浪費されているように感じています。一例として、抗凝固剤のワーファリンという治療薬があります(6号・74号参照)。最近では特に、心房細動という不整脈が脳梗塞の重要な危険因子であるために、その予防目的で投与することが常識的になっています。納豆やクロレラの摂取は禁止されることと、定期的に(毎月など)服用量のチェックに採血検査を行う必要があります。
数年前から異なった機序の同類の薬剤が数種類出現しましたが、上記のような禁止食品もなく、定期的な採血検査も不要で面倒くさくないというものです。ただ、検査不要というのはワーファリンの場合のように良い判断指標がないということで、不都合でもあるのです。しかし、とにかく便利だと思います。最近、私自身も必要があって服用したことがあります。

ところで、ワーファリンは1錠9.6円です。これをもし平均1日3錠が適量の方は月額864円ですが、新しい薬剤であれば純薬剤費だけで月額約1万円です。10倍以上も高騰します。この数年、専門医がどんどんこれに切り替えてきていますので、病診連携している診療所もなし崩し的に切り替えざるを得ない状況です。既に長年ワーファリンに慣れている患者さんはそのままそれを使ってもらう方針でおります。一年程前、そのうちの一人の方が新しい薬の情報を知って、「切り替えて欲しい」とのご希望がありました。「今までのワーファリンの方が良いと思います」と説得しているうちに電話があり、「年も取ったし、近くの医院にかわるので紹介状を書いて欲しい」ということで、その患者さんを失いました。便利か便利でないか程度で10倍も高い薬に平気で変更するようでは、医療費削減も絵に描いた餅です。厚労省はつまらない方策(ここでは具体的に述べません)で現場の医師の疲弊を招くのではなくて、本筋で医療費削減を実行しなければならないと思います。


また、効果があいまいな薬をだらだら用いることによって医師・患者双方にいい加減な精神を育んでいると思います。多くのビタミン剤や多くの漢方薬などがその筆頭のように思われます。去痰剤でさえどれ程効果があるか不明です。最近の話では、「咳喘息」のような性格の咳には通常の咳止めはほとんど効果がないように思われます。

081 いろんな疾患の治療法の進歩は現在進行形です (2016.06)

81. いろんな疾患の治療法の進歩は現在進行形です  (2016.06)

血圧の管理で通院されている60歳台後半の男性が、数年前に歩行が不安定になり、病院の神経内科に通院されています。「原因不明の小脳変性症で、一種類の薬の処方を受けているが、少しずつ調子が悪くなっていて、見込みがない」とのことです。小生は「長生きしているうちに良い薬が出てきますよ」と常に励ましています。

17年程前に妻の友人の中学生の娘さんが突然「特発性肺高血圧症」という難病を発症しました。学生生活をしながら基幹病院でフォローされていました。そのうちに心不全状態が悪化して、「一刻の猶予もない状態」ということで、その日のうちに予め病々連携していた岡山大学に陸路救急車で搬送されました。唯一の治療法であった肺移植のドナーに父親がなることを決めていたからです。しかし、手術できる状態にまで改善せずに亡くなりました(ヘリ輸送は選択できなかったのか?)。それから1年ほどして、双子の同胞にも同疾患が発症しました。ただ、その短い期間の間に病態管理の特効薬が我が国にも導入されましたので、その方は特別の薬剤投与法を継続することにより、今も仕事を続けています。新しい薬剤の出現によって状況が一挙に変わることを目撃しました。

糖尿病に対する薬剤はこの10年ほどの間に、日進月歩的に新しい薬剤が数種類発売されてきましたし、最近までに見捨てられていた感のある薬剤の再評価もありました。現在は、4~5種類の内服薬が揃うようになりました。その結果、外来での大部分の糖尿病患者さんのデーターが非常に良くなりました。この数年間に長期的にインスリン注射を使わざるを得なかった5名ほどの患者さんの全員においてインスリンから離脱することが出来ました。現在では従来の主役であった血糖降下剤以外の内服薬が中心です。つまり、糖尿病の治療は以前とは革命的に違うようになった感があります。その結果、個々の患者さんによっては、生活指導を以前ほどは厳格にしなくても良くなっています。

気管支喘息も30年ほど前までは、専門医にかかっていても「ゼーゼー」からなかなか解放されず、気の毒で危険な状況が多かったと思われます。喘息のような病態には、副腎皮質ステロイド剤以外の薬剤の効果は不確実のために、長期間安定を維持することが難しい方が多かったのです。結局は、ハンドネブライザーのステロイド剤の開発で(その後パウダー吸入もあり)、多くの喘息の管理は非常に楽なものになっています。当院では、毎月の病名の統計で「喘息」は百名ほど来院されていることになっていますが(咳喘息も含まれる)、実際にはそんなに受診しているような印象は全くありません。吸入薬を処方しているだけで大多数の患者さんの状態が落ち着いているからです(10号・11号参照)

「肺気腫」という病気は「薬の効かない喘息」と思えば判りやすいと思われます。肺の構造が進行的に壊れていっているからです。予後は地獄的な呼吸不全が待っていました。麻薬の使用が対症的に若干有効でした。しかし、この20~30年の間に在宅酸素療法の普及で、状況は多少緩和されていると思います。さらに最近は、新しい機序の吸入薬も出ましたし、ステロイド剤の内服や吸入を併用適用することにより、さらにもう少しだけ緩和されることが期待できるようになっています。


心不全に対する治療薬剤のイロハのイは利尿剤ですが、この20年ほどの間に、心保護作用のある降圧剤の併用の匙加減が開業医レベルでも役に立っていると思います。進行癌に対する薬物の開発は現在やっと花開こうとしており、既に一部はかなりの恩恵を与えています。日常生活をしながら延命している方々が増えているのを目撃しています。